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不正受益
社会とは、人と人とが支え合ってつくるものだ。人間は一人では生きられない。だからこそ、お互いに助け合う。それが社会の大前提であり、誰もが守るべき基本のルールだ。 当然、困っている人や弱い立場にある者は守られるべきだし、力のある者にはその力を誰かのために使う責任がある。学校という小さな社会でも同じだ。勉強や部活で力のある者が、不慣れな仲間をサポートする。その助け合いがあるからこそ、集団は集団として維持され、強くなれる。 しかし、ここで絶対に勘違いしてはならない、そして人としてやってはならない卑怯な行為がある。それは、「自分は弱者だ」という立場を都合よく装い、他人の優しさや社会の仕組みを悪用して、楽をしたり利益を得ようとしたりすることだ。 大人の世界を見渡してみると、残念ながらこうした「偽りの弱者」を装う、恥ずべきニュースが後を絶たない。 例えば、国や自治体が生活に本当に困っている人を支えるための「生活保護」という制度がある。これは病気や怪我でどうしても働けない人のための、社会の大切な命綱だ。しかし、ニュースでは「本当は別の仕事をして十分に収入があるの
1 日前


ギフテッド
塾の講師として気づけば30年近くが経っている。その30年という時間の中で、私自身が「あ、この子は本物の天才(ギフテッド)だ」と心の底から圧倒された生徒が一人だけいる。今回は、その彼のエピソードとそこから私たちが学ぶべき「勉強の本質」について話をしたい。 私が教えていた某所の教室での中3最上位クラス。最後列の隅が定位置のその子は、私の数学の授業中にノートを開かなかった。と言うより、ノートを持ってすらいなかった。私が黒板にどれだけ重要な解法を書こうが、一切メモを取らない。 そして問題演習の時間。普通なら問題ページの余白に計算式をいくつも書き連ね、あちこち思考を巡らせながら答えにたどり着くものだが、彼は違った。途中式を一行すら書かない。ただじっと問題を見つめ、数秒後、解答欄に正解だけを「ポン」と書くのである。 教科書の例題レベルではない。難問と言っていいレベルの入試問題である。気になって「どうやって解いた?」と聞くと、言葉少なに解答導出までの道筋をボソボソと語る。合っている。「このくらいの説明なら先生でもわかりますか?」と言われているような気にもなって
4 日前


失敗した!
バイクの免許を取るために教習所に通い始めた。そして迎えた初回の技能講習、手痛い洗礼を受けた。立ちはだかったのは「一本橋」。結果は散々。何度トライしても途中で落ちてしまう。お世辞にも上手とは言えないスタートだった。 ここで私は何を思ったか。まず単純に悔しかった。「こんなの余裕でしょ!」と高を括っていた自分が恥ずかしい。そして・・・・絶対に克服してやると心に決めた。※克服しないとバイク乗れないし。 で、何をしたか。YouTubeでHowto動画を漁り、克服のための方法を研究した。そして、普段ほとんど乗らない自宅の自転車を引っ張り出し、限界まで速度を落としてバランスを取る練習を繰り返している。理論と実践。「どうすれば落ちないか」を徹底的に体に叩き込んでいる最中だ。 いい歳したオッサンが真剣な顔で自転車(しかも超スローww)に乗っているのだから、傍から見たら異様ですらあるだろう。通報されないかちょっと心配だ(笑)。だが、自分で決めた目標達成のための取組を他人の目を気にして止める気はさらさらない。また、少しずつ進歩している実感があって楽しくすらある。...
5 日前


何を書けばいい?
英作文、国語の課題作文で自分の意見を求められて「何を書けばいいかわからない」と言う生徒や、授業中にどう思うかと尋ねても下を向いて黙ってしまう生徒。これは教科の壁を越えてあらゆる教育現場で起きている深刻な問題だと思う。今に始まったことではないのかもしれないが。 文法がわからないとか漢字が書けないといった技術・技能的な問題以前に、子どもたちが「自分の思ったことをアウトプットする」ことそのものに強いブレーキをかけているように思えてならない。多くの大人はこれを表現力や思考力の不足と考えがちだが、本当の問題はそこではないのではないか。 最大の原因は、「正解バイアス」にあるのではないかと私は考えている。 これまでの学習で用意された一つの正解を当てることに慣れすぎた結果として、「間違った意見を言ったらどうしよう」という正解バイアスの罠に陥り、思考がロックしてしまっているのではないか。 この書けない・言えないという子どもたちに、「自分の思ったことを自由に書いていいんだよ」とただ促しても問題は解決しない。我々のような立場の人間はもちろん、子どもたちの周囲にいる全
6月17日


宝物
まずはっきりと言おう。この世界はお金さえあれば大抵のものが手に入る。それは紛れもない事実だ。 欲しいゲームも、最新のスマホも、贅沢で最高に美味しいご飯も、おしゃれな洋服も、お金があれば一瞬で手に入る。もっと言えば、お金があれば「気ままで快適な生活」や「失敗したときの安心」すら買うことができる。場合によっては他人を思うがままに扱う「権力」や長生きのための「寿命」までも。お金を持つことは強さであり、ある意味では正義だ。だからお金を欲しがる。皆、喉から手が出るほど欲するし、手にする量は多いに越したことはない。そして、それを無駄に失わないように必死になる。 だが、どれだけ大金を積んでも絶対に手に入らない、そして簡単には失うことのない「宝物」も存在する。 わかりやすい例を挙げよう。まずは、スマホゲームの「課金」だ。 お金さえ払えば、一瞬でレアなキャラクターが手に入り、労せずしてレベルが上がり、ゲームの世界で「最強」になれる。お金がもたらす圧倒的な快感だ。そして、データはパスワードという名の鍵で、厳重に守られる。 もうひとつ例を挙げてみよう。「部活」はどうだ
6月15日


遠くを見る
幼い頃、自転車に乗り始めたころの記憶を呼び起こしてみよう。フラフラと体が揺れてしまい、真っ直ぐ進めなかったことだろう。バランスを崩して転倒をしたかもしれない。また、スキーやスノーボードの経験があるなら、初心者のうちは同じような感覚を持ったと思う。 この原因は「すぐ手前の足元ばかり見ている」という一点に尽きる。 人間の身体には目線を向けた方向へ自然と進みバランスを取るという習性があるため、自転車の前輪のすぐ先や、スキー・スノボの足元の雪面ばかりに気を取られていると、小さな段差や雪の凹凸に過剰に反応してしまう。結果としてハンドルや板のコントロールを失って蛇行や転倒を引き起こすことになる。 上達のためには、「視点をできるだけ遠くに置くこと」が有効だ。はるか先の道の奥やゲレンデの麓に視点を固定するだけで、頭部は自然と上がり、背筋が伸び、体幹を中心とした理想的な乗車姿勢や滑走フォームに近づく。実際、普通に自転車に乗れるようになってから前輪ばかり見ながら運転している者はいないだろう。 フォームが変わると、心理的な部分にも好影響がある。近くの景色は猛スピードで
6月12日


生きる=学ぶ
バイクに乗ることにした。 まぁ、バイクと言っても原付2種。ガチのバイク乗りには「それはチャリでしょww」と笑われそうだが。 この歳になると、他人の評価は本当にどうでもよくなる。自分がやりたい!と思ったことを我慢するほどの時間は残されていない。無論、他人に迷惑をかけるような「やりたいこと」は言語道断だが、道徳的にも経済的にも許される「やりたいこと」は何でもやってやろうと思っている。 免許を持っていないので教習所に通うことになる。ただの生徒として教えを乞うという経験もまた楽しみだ。こっぴどく叱られて泣くかな(笑)。もしかしたら、教習所の教官から学ぶことで仕事上役立つことがあるかもしれないなとも思う。 何歳になっても学ぶことは尽きない。そして、新しいことを学び、新しい世界に足を踏み入れる高揚感。たまらないな。 生きるということは、学び続けることだとしみじみ思う。
6月10日


習ってない?だから?
「先生!これまだ習っていません!」 授業中に結構聞く言葉だ。ちょっとした言葉を漢字で書こうとしたときによく出てくるね。 確かに、習っていないことを「知らない」状態であるのは事実だ。しかし、この言葉の裏には、成長を著しく阻害する致命的な姿勢が隠れているように思う。 「まだ習っていません」という言葉は、裏を返せば「だから自分にはできなくて当然であり、やる必要もない」という、思考のブレーキにほかならない。誰かが教えてくれるまで受動的に待つ。与えられた狭い枠の中だけでしか行動しない。このような受け身の姿勢を続けている限り、勉強は常に「他者から強制される苦痛な作業」であり続ける。 主体性のない学びから、高い成果が生まれることは決してない。 学力を飛躍的に伸ばす生徒や、社会に出てから圧倒的な成果を出す人間は、知識を「自ら能動的に取りに行く」という確固たる姿勢を持っている。「まだ習っていないこと」は、行く手を阻む壁ではない。「新しい世界を切り開くための入り口」である。 学校や塾の授業進度で自分の限界を決めることはない。自らの好奇心に従い、貪欲に知識を掴みに行く
6月8日


研ぐ
私はたまに家で料理をする。とはいっても料理が好きなわけでもなく、必要に迫られてやることが多いので、正直に言って作るもの自体に別段のこだわりはない。そんな私でも料理の場面で絶対に譲れないことがある。それは、「切れない包丁は許せない」ということだ。 料理にこだわりがなく、たまにしか使わないのなら、切れ味など適当でいい?逆だ。たまにしか使わないからこそ、最善の状態で使いたい。毎日料理をする人間は、道具の扱いに慣れているため多少の不調は技術でカバーできる。しかし、たまにしか料理をしない人間こそ、道具のポテンシャルを100%引き出すべきだ。切れない包丁でトマトを潰しながら切るストレスほど、無駄なものはない。 しっかりと研ぎ澄まされた包丁は、食材に吸い込まれるように刃が入る。玉ねぎのみじん切りで涙が出ないのも、引き切りで美しく切れるのも、すべて「研ぐ」という事前の準備があるからに他ならない。つまり、研ぐという行為が使用者のレベルを底上げする大きな武器になりえるのだ。 先日、あるクラスで言ったこと。「先の丸まった鉛筆や小さくなり過ぎた消しゴムを使っている生徒で
6月5日


全力で休む
日々の学校での授業や部活。塾での授業・宿題。子どもたちの毎日は、目まぐるしいスケジュールで埋め尽くされている。とは言っても受験もあるから、保護者も「限られた時間の中で、どうすれば効率よく成果を出せるか」と、毎日ハラハラしながら我が子を見守っていることだろう。 現代は「タイパ」や「効率」が重視される時代だ。無駄を極力省き、最短距離でゴールに到達することが正解とされる場面も少なくない。だが、それは本当に目指すべき方向なのだろうか?非効率は本当に悪なのか? これまでの経験で私が確信していることがある。それは、最初から「無駄を省いて最短を目指す」という考え方に囚われすぎると、決して良い結果は生まれないということだ。 一見すると、最短ルートを選ぶことが一番賢く、成果への近道に見えるかもしれない。しかし、無駄を完全に排除した勉強や生活は、薄氷の上を歩くようなものだ。少しでも計画が狂ったり、想定外の壁にぶつかったりした途端に、ポキリと心が折れてしまう。なぜなら、無駄を削ぎ落としすぎた心には、想定外のトラブルを吸収するための「ゆとり」が残っていないから。...
6月3日


根拠なき自信の正体
「北辰の結果見て、自分ではどう思った?このままだと本当にマズいぜ」 入試の迫った11月の三者面談で、危機感MAXの私や保護者を尻目に、「がんばりま~す」と、まるで他人事のような顔で返してくる中3生徒。 「どうしてこの期に及んで危機感を持てないの?」 「現実の厳しさがまるで見えていないのでは?」 そうイライラしてしまう保護者の気持ちは痛いほどよく分かる。私も気持ちは同様だ。だが、実は子どもたちは、サボって現実を無視しているのでも、親を怒らせようとしているのでもないのかもしれない。脳の仕組み上、「データを見せられても、自分事として捉えられない」という深いワケがあるのだ。 心理学や行動経済学の世界には、『楽観主義バイアス』という言葉がある。 人間には、客観的なリスクをどれだけ突きつけられても、「悪いことは自分には起きない」「周りは落ちるかもしれないが、自分だけはなんとかなる」と、無意識に都合よく解釈してしまう脳のクセがある。特に中学生という時期は、客観的にリスクを推し量る脳の「前頭葉」がまだ発達途上だ。だから大人以上に、この「根拠のない自信」というバイ
6月1日


転倒歓迎
犬の散歩中での風景。公園で駆け回る幼児が数名。兄弟なのかな?元気いっぱいで微笑ましい。その公園はちょっと丘になっていて、斜面には滑り台も設置されている。 その滑り台に沿うようにして、斜面を駆け下りてきた3歳くらいの男の子。おっと、ちょっとスピード出過ぎじゃないか?と思っていたら、案の定、派手にすっ転んだ。あ~あ、大丈夫かな?大泣きするか? 遠目で見ていたから詳しくはわからないが、一瞬表情を歪ませたものの、5秒後にはシャツの前面を手ではたいて、また走り出した。 この光景を見て、実はちょっと嬉しくなった。 自分が子どもの頃、遊びとは外でするものだった。望んでいることではないが、転ぶことだってある。家に帰って風呂に入ると、身体のあちこちが擦り傷でヒリヒリしたり、いつの間にかできたアザに気がついたり。これが当たり前の日常だった。 きっとあの子も、今日お風呂で改めて膝の傷や腕のアザに気づくのだろう。そしてその痛みを感じながらも、明日は何をして遊ぼうかと考える。 これはとても大切な経験だと思う。転ぶことで自分の能力の限界を知ったり、その回避方法を思いついたり
5月30日


捨て駒
『ダークナイト』。クリストファー・ノーラン監督の言わずと知れた名作で、私が大好きな映画のひとつである。バットマンは「正義の象徴」であるハービー・デントを守るため、彼の犯した罪をすべて自分が被り、警察から追われる犯罪者として闇に消えていく。まさに自らが「捨て駒」となることで社会を守ろうとする究極のヒロイズム。カッコいいぜ。 ところで最近、ヒロイズムの欠片もなく、ちっともカッコよくない、高校生が「捨て駒」になる事件が多く起きている。 「高校生はまだ未熟ゆえ、(大人の)犯罪者に脅されて逃げ場をなくし犯行におよんだ」といった論調の報道もある。たしかに未熟。だがそれは、その行動を犯罪と認識できていないほどの未熟さではないはずだ。他人の家に入り込んで物を盗んだり人を傷つけたりすることが悪いことだとわからないほどバカではないだろう。 提示された報酬と前科がつく(場合によっては人生を棒に振る)リスクとの釣り合いが計算できないという未熟さはあろう。ただそれは例の指示役の若夫婦にも言えることだから、未成年ゆえの未熟さというわけでもない。年齢に関係なく、目先のいくばく
5月28日


高校選び
高校は本当に楽しかったな。高校時代の友だちとはいまだに年1回は会う。会えば話はつきない。昔の話、今の話、将来の話。利害関係はないから、言いたいことを言って笑い合う。話を面白くするために多少「盛る」こともある。そんなこともお互いに承知済み。一方で、それぞれが当然ながらそれなりにオトナになっているわけだから、多少の気遣いもできるようになっている。それも、さりげなく。そんな関係。 そんな仲間に出会えたこと、その関係が40年以上たった今も続いていること。これは本当に幸せなことだと思う。生徒諸君にもぜひそんな仲間に出会ってほしいと願っている。 私にとってそういう仲間に出会えた機会が高校時代だったわけだ。それはたまたまだったのかもしれないが、考えてみると必然性もあったかと思う。 一言で言うと、高校は「志向の近い者が集まる場所」だからだ。もちろん細かく言えば目指しているものはそれぞれだし、個性も異なる。だが、多くの選択肢があるなかで、他の高校でなくその高校を選んだということは、何かしら「根っこ」の部分での共通項があるのだと思う。 そんな同じ根っこを持つ「子ども
5月27日


脳を知れば無駄は減る
「理科や社会は暗記ものだから、テスト前日に全集中!」 「漢字テストや英単語テストは直前の詰め込みがベスト!」 これらのやり方は、うまくいく可能性がある。『締切効果』と呼ばれるヤツで、時間的な制約があると「やらなければならない!」という緊急性が生まれて、集中力が爆発的に高まることで効率が上がる。だから、目先の結果は出ることがある。 だがそれは本当に目先だけの話であって、ちょっと長い目で見ると成功とは言えない。2週間後に抜き打ちで同じテストをやればすぐにわかる。おそらく3割も取れないだろう。下手したら1割未満。「目の前のテストさえクリアできれば万事OK!」という刹那主義ならいいが、せっかく頑張った努力が見事に消えてなくなるのは惜しくはないか? 人間の脳に入ってきた情報は、まず耳の奥あたりにある「海馬」という場所に集められる。直前で詰め込んだ知識は、すべてこの海馬に一旦「一時保存」された状態になるのだが、海馬のキャパシティ(容量)は限界があるため、詰め込みすぎるとすぐに溢れてしまう。だから、海馬に集まった情報のうち重要なもののみを「大脳皮質」という場所
5月24日


読力
「(テストで)国語の文章全部読んだことなんてない。だって長いし、めんどくさい。傍線部のまわりだけ見て、なんとなく答えを書いてる」 大昔だが、中3の三者面談で生徒本人の口から出た言葉。なるほど。「読めない」のではなく「読んですらいない」のか、と妙に納得した覚えがある。そりゃ、正解できるわけない。文章読解が苦手という生徒の多くが、実は「読んでいない」のかもしれない。 国語に限った話ではない。成績が振るわない生徒は、おそらくほぼすべての科目において、勉強中もテスト中も読んでいない。だから、口頭で説明されたことをオウム返しにリピートすることはできても、実際の学力として身につかない。読むこと、つまり能動的に理解することを避けていたら当然の結果だ。 普段からまとまった文章を読んでいる人間は、知らない言葉が出ても前後の流れから意味を想像できる。しかし、普段活字を読まない人間は、1つ分からない単語があるだけで前に進めなくなる。この違いは経験値の差からくる。 普段走っていない人間にいきなりマラソン完走は無理。だが訓練すれば、ある程度の距離は止まらずに走れるようにな
5月22日


シビれる話
自分の外見を気にするのは自然なことだ。行き過ぎたルッキズムはいただけないが、自分を磨く一つの方法でもある。メイク、髪型、ファッション。自分に合うスタイルを追求していくということは、人によっては何事にも代えがたい喜びだろう。 特に年頃の若者にとってはそれが生活の中心にさえなりえる。別に否定しない。自分自身もそんなことばかり考えていた時期はある。そして、そんな自分のDNAを受け継いだ娘がファッションやメイクに傾倒するのも自然な流れか(笑)。 それは構わないのだが、気になることがあって娘に注意をした。それは・・・ドライヤーやヘアアイロンの使い方。使い終わったら必ず電源を切れよ!とかそんな話じゃない。 コードの扱い方、だ。 どういうわけかはわからないが、娘はドライヤーに加え2つのヘアアイロンを使用している。そしてそれらを同時にコンセントにつなぎフル活用。そのこと自体は別に構わない。問題なのは、それらのコードがグチャグチャに絡み合った状態で使っていることだ。みっともないとかそういう話ではない。 ちなみに、私の知る別の女性は、ドライヤーを収納する際にしばしば
5月20日


旅
行ったことのない場所へ行き、見たことのない光景を目の当たりにし、味わったことのないご当地グルメを堪能し、違う文化を持つ人びとと交流する。旅行はいいね。明日からでも出かけたい。もちろん無理だが。 自分の子供が小さい頃はなるべくいろんな場所に連れて行ってやりたいと思った。自分があまり旅行に連れて行ってもらった記憶がないからかな。(私の父親はデパート勤めで、土日や連休が休めなかったから仕方がないのだが。)ただ、子供を連れて行くとなると「準備」や「計画」が必要だった。旅行の時間はそう簡単には取れないし、最大限楽しませてやりたいという思いから。今思い起こしてみると、ちょっと考えすぎだったかとも思う。もっと気楽に無計画にふらっと出かける機会があっても良かったのかな。別に特別な観光地を訪れることだけが旅行じゃない。普段いかない場所へちょっと足を伸ばすだけでそれは立派な旅行だ。 そうはいっても、制約があってなかなか出かけられないという現実もあるだろう。また、年頃になると、「親と一緒に旅行なんて」と考える子もいるかもね(※中学生以降の私はそうだった)。そうなると、
5月17日


ただの数字じゃねぇか、こんなもん
「北辰の結果が返ってきたが、点数は上がったのに偏差値が下がった」 「偏差値60って、具体的にどの程度の出来具合なの?」 受験生になると頻繫に目にする「偏差値」。数値が大きければ良い結果、くらいのことは分かっているだろうが、一体これは何なのか?をはっきり理解している生徒は多くないかもしれない。解説していこう。 テストの点数だけでは、本当の実力は測れない。 例として、次の2つのケースを比較してみる。 〇〇中学のAさん:数学 80点(平均点が 90点) △△中学のBさん:数学 60点(平均点が 40点) 点数だけを見ればAさんの方が高い。しかし、実際には「みんなが高得点を取っているテストで点数を取り切れなかったAさん」より、「周囲が苦戦した中でみんなより高得点を叩き出したBさん」の方が、評価が高くなるのは自然だよね。 この「平均点との差」や「集団内でのすごさ」を、どんな難易度のテストでも共通の基準で測れるようにしたもの、それが偏差値だ。「同じテストを受けている中での自分のポジション」と言ってもいいかな。 偏差値を見る際、基準となるのは「50」という数値
5月15日


将来の夢
おまわりさん、自動車整備工、パイロット、建築家、映画評論家、会社社長。 これは私が「自分が将来なりたいもの」と夢想した職業を小学生時から時系列で並べたものだ。言うまでもなく一つも実現していないが(笑)。 思い返せば漫画・TVなどのメディアや、周囲の大人から聞いた話などがその起点になっていた。だがそ結局それになれなかったのは、最終的に諦めもあったし、他のことに興味が移ったこともあった。だが言えることは、実現できなかったことを後悔はしていないということだ。 少なくとも考える前から「自分には無理だ」とは思わなかった。そして、その瞬間には「どうすればなれるか」をそれなりに真剣に考えていた。それは、環境も、そしてその時点での自分自身も、それに足るものであると思えたからだと思う。 『幸運とは、準備と機会が出会った時に生まれる』(セネカ) 夢を実現できるかどうかは結果論。大切なのは、そのチャンスがいつ訪れてもいいように「準備しておくこと」じゃないかな。
5月12日
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