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自動運転
自動運転技術の進化はめざましい。もう来年にはレベル4(※特定条件下での完全自動運転)が実用化との見通しも。生徒諸君が社会人となるころには、街中でも運転手不在の車が相当数走り始めていることだろう。私が小学低学年の頃、図工の時間に描いた「みらいの絵」に現実が近づいている。 ところで、乗り物の自動運転化が進んだ場合、人は運転をしなくなるのだろうか? バス等の完全自動運転化となればランニングコストは下がるから、公共交通網は今よりも細かく整備され、各所への移動は今よりもかなり便利になる可能性が高い(というか、そうあってほしい)。そうなったら、自分で運転する「必要性」は低下する。これから成人を迎える世代の運転免許取得率は下がるのかもしれないね。 ご存じトヨタの現在のスローガンが「Start Your Impossible」。「すべての人に移動の自由を届ける」ということらしい。ただ、以前は「Drive Your Dreams」とか「FUN TO DRIVE」と言ってたんだよね。つまり、乗り物・運転には実用性一辺倒でない「夢」「楽しさ」があると。...
2 日前


質問返しの意味
「で、お前自身はどうしたいの?」 社会人1年目の営業マン時代。まだ経験が浅く、右も左もわかっていない状態。当然、どう進めれば仕事が上手く運ぶか見当もついていない。だからこそ尋ねた。「これ、どうすればいいんですかね?」。そのときに上司から返ってきた言葉。 正直最初は、「わからないから聞いてんだろうーが!」と思ったものだ。質問に対して質問で返すなんて意地悪されてんのか、と。 だが、少し経つとその真意がわかるようになる。言われた通りに動いているだけでは、いずれ使い物にならなくなる。本人が自分の頭で考え、それを行動に移せるようにならないと。言うまでもないことだが、最初の「考えて(=Plan)」がなかったら具体的な行動は起こせない。そして、その成功に至るPlanは決してひとつとは限らない。※余談だが、最近世の中に「最適解」という言葉が溢れているが、私はこの言葉が嫌いだ。 最初から上手くいく必要はない。拙いながらも自分の持っているものをフル稼働させてPlanし、実行する。上手くいかなければその原因を考え、改善のアクションを取る。この繰り返し。それこそ擦られま
2 日前


1台のミニカーに思うこと
最近、かつて自分が乗っていた車のミニカーをすべて集めようと思い立った。 小さい頃から車は好きだ。だから、車を選ぶ際には基本的にこだわりを持って選んでいる。どうしても”日常の足”が必要で「とりあえず・・・」で選んだものもあるが、それはそれで乗っていれば愛着が湧くものだ。だからそういう車も含め、すべてのミニカーを集めようかと。 思い立った当初は結構簡単に集められるだろうと高を括っていた。ところが実際に探し始めるとそう簡単なものでもない。やはり「自分が乗っていた車と同じミニカー」が欲しくなるのだ。車というのは同じ車種でも様々なグレードがあって、外観もかなり異なる。自分が乗っていたものと(少なくとも外観は)同じものが欲しい!なんて思うとなかなか見つからないものだ。そうは言っても、「欲しい物には金に糸目をつけないぜ!」というほどのガチ勢ではないので、ミニカー1台にそんなに(お金は)出せない。海外も含め方々を探してやっと1つ手に入れた。 若い頃に7年落ちの中古で手に入れた1台。ものすごく大切にしていた。かといって、カバーをかけてしまっていたわけではなく、毎日
5月4日


レジリエンス
生きていれば、「あーー、もう!ストレス溜まるな!」ってことはしょっちゅうあるよね。現代は、子どもと言えど様々なストレスにさらされている。世の中が便利になる一方で複雑化していることが原因なんじゃないかなぁと思う。ほんの10~20年前には考えられなかった種類のストレスが相当あると思うから。 特に子どもたちもみんながデバイスを携帯し、常時接続が当たり前になったことで生じるようになったストレスは新しいものと言えるだろう。 ・常に誰かと繋がっているという「フルタイム人間関係」 ・目の前の人間以外とも自分を比較してしまう「デジタル劣等感」 ・洪水のような「インフォデミック(情報過多)」 ・黒歴史が永遠に残る「デジタルタトゥー」 ・何もしない時間を無駄と考える「タイパ脅迫観念」 今の君たちが感じているストレスは、お父さんやお母さんの世代にはなかった新しい種類の、いわば『未知のウイルス』のようなもの。もともと人間にはその耐性は備わっていないのだから、辛いと感じるのは当たり前。君たちが弱いのではなく、環境がそれだけハードモードになっているということ。...
5月3日


センセイ
先生と呼ばれる職業は多くある。学校や塾などで教える仕事、医者・弁護士などその道のスペシャリスト。自分もその端くれなワケだが、いまだに「先生」と呼ばれることに慣れない。 大学生のときに、とある国会議員と会う機会があった。私自身が望んだ会合ではなかったし、当時政治に対する関心も低かったから、ただ単に「ひとりの大人に会う」という感覚だった。ところがその当日の待ち合わせ場所で、その議員秘書から「先生(=その国会議員)がお見えになったら、走って行ってお出迎えをしてください!」と言われた。 は?走ってお出迎え?俺は家来じゃねぇ。(←心の声。発声はしていないw) 実際に走りもしなければお迎えもしなかった。秘書は苦い顔をしていたような気がするが。まぁさすがに議員当人はそれでへそを曲げるほど狭量ではなかったと記憶している。ただ、好印象とは言えなかった。自分は特別な人間であると信じて疑わないのは構わないとしても、周囲もそう思うのが当然という考えはいただけない。 先生という呼称は敬意を含んだものであると思っている。ということは、そう呼ばれる者はそれに見合う資質を持って
5月1日


集中できる環境
勉強に集中できる環境というのは人それぞれ。自宅の自分の部屋にひとりでいるほうが集中できる生徒もいるし、リビングで家族の気配を感じながら取り組むほうがよい子もいる。音楽をかけながらのほうが没頭できるという子も。ちなみに、私が中学生の頃はFEN(今はAFNらしい)というラジオを聴きながら取り組むのが一番集中できた。 取り組み方に絶対の正解はないから、いろいろ試してみるといい。他人にとってベストな方法が自分にとっても最善とは限らない。友達の真似をしてみるのは悪くないが、あくまで自分に合った道を追い求めてほしい。 ここで勘違いしないでほしいのは、追求するのは本質的な勉強、すなわち「取り組んでいることが頭に入るかどうか」だ。「宿題を単に終わらせること」ではない。「作業」をラクに終わらせることを目的としてはならない。 テスト前に「友達と一緒に図書館などで勉強する」という話を聞く。そのやり方で本当にできるようになっているなら良い。実際にお互いに刺激を与えあって好結果につながる例もある。ただ、それはレアケース(珍しい事例)かな。多くの場合はおしゃべりの時間が大半
4月29日


可能性を信ずるということ
小学生の頃のこと。初めて訪れた場所で、「あれ?この光景、見たことあるぞ」と感じることがあった。もしかして・・・・自分には予知能力があるのではないか?自分は特別な人間なのかもしれない。きっとそうだ。自分は超能力者なのだ! これをデジャブ現象といって、誰しもが経験することなのだと知るのは、中学生になってからだったかな?(笑) この話は笑い話だが、自分の可能性について限界を感じない、自分にはあらゆる可能性があると信ずる、こと。これは素晴らしい。若者はそうでなくてはいけない。特権といってもいい。自分にはこんなことはできない、と壁を作るのは年寄りになってからでも遅くない。どんどんチャレンジして、成功したり失敗したり。失敗したらもう一度チャレンジすればいいし、別のことにトライしてもいい。ここで大切なのは、可能性を信じるのならそこへ向かっていく意志を持ち、実際に行動するということだ。 一方で、中学生くらいになったら過信には気を付けないといけない。過信とは根拠のない自信のこと。自分は本当は上手くできるはず。今回できなかったのは”たまたま”だった。環境が悪かった、
4月27日


必要量
「別に浦和一女とか大宮に入って欲しいわけじゃないんですよ!!それなのにこんなに勉強しなきゃいけないんですか!?」 某塾にて私が講師していたときの保護者面談での一コマだ。いきり立つ保護者を前に、私は心の中で小さなため息をつく。 「そこそこのレベルを目指すのだから、そこそこの努力で十分」という発想だろう。気持ちはわからなくもない。だが、これは正しくない。必要量はゴールの難易度で決まるものではないからだ。 難易度が0から100まである物事があるとしよう。そしてキミの目指すレベルが70だとする。「そこそこのレベル」だ。現状の自分が65のレベルなら、それほどしゃかりきになって頑張らなくていいかもしれない。だが、もし自身のレベルが50以下なら、その20以上のギャップを埋めるのはそう簡単ではないだろう。 わかりやすいたとえをするなら、「空中逆上がり」。逆上がりができる子とできない子では、「空中逆上がり」ができるようになるまでの練習量は同じではないよね。 そもそも努力量と成果は比例するとは限らない。頑張った分だけ確実に成果が上がるのならこれほどラクなことはない。
4月24日


AI禁止に思うこと
新入社員に 業務上でのAI 使用禁ずる企業が急増していると聞く。これほど便利なツール なのになぜだろうか?会社の役員たちの頭が固くて、新しい技術を受け入れられないから? とある企業で新入社員に会議の議事録作成を任せたらしい。するとその新入社員は、 会議内容のメモすら取らず、 録音した内容をそのままAIに投げて 議事録にしたようだ(笑)。結果、誤字だらけの意味不明な議事録の出来上がり。 そもそも議事録作成を新入社員に任せた意図は何か。おそらくその会議に参加させることで、会社の目指す方向性だったりそのための課題等に触れさせ、「本人に考えさせる」きっかけとしたかったのだろう。新入社員の教育が目的だったわけだ。それを当人は見事にAI に丸投げし、自分では何もしなかったということだ。 以前の記事 でも触れたが、これが大きな弊害なのだ。 AIは、「根本的なことがわかっている人間が使う便利なツール」であり、「何もわかってない人間が丸投げできるお手伝いロボット」ではない。丸投げして、恥をかいたり評価を下げて損するのは自分だ。「自分では何もできませ〜ん」と高らかに
4月20日


柔軟さ
今年初頭から慢性的な腰痛に悩まされている。整形外科を受診して、「腰椎すべり症」の初期段階と診断された。これから生涯付き合っていくしかなさそうだ。 緩和のためのストレッチや軽い筋トレについて教えてもらい、毎朝起床時にいそいそと取り組んでいる。※「そういうのを生真面目に継続できる人なんだね」とカミさんが妙に感心している。 もともと身体が柔軟なほうではないが、運動不足でここまで硬くなっているとは。生徒たちに見られたら爆笑されるレベルだろう。これでは各部に負担がかかるのも当然だ。柔軟性を取り戻す運動はこれからも地道に続けていこうと思う。 この歳になってくると柔軟さが失われるのは体だけではない。「思考の柔軟さ」もまたきっと衰えているのだろう。まだそれほど自覚はないのだが、その「自覚の無さ」こそが柔軟性の低下のようにも思える。体と違って表面上はわかりにくいからこそ「アタマの柔軟運動」「心のストレッチ」もまた必須なのだろう。最近読書量が減っているから、意識して読むようにしよう。 一方で、今後衰えていく自分を穏やかに受け入れたい気持ちもある。親を介護した経験から
4月19日


ブレインロット
「ブレインロット(brain rot)」という言葉を最近よく聞く。巷で人気のゲームタイトルとして知っている生徒も多いだろう。直訳すれば「脳が腐る」。「なんか頭がボーっとする」「集中できない」「何も考えられない」状態のこと。 YouTubeなどのショート動画を見始めてなかなか区切りがつけられないことはないだろうか?私もしょっちゅうあるよ(笑)。ゲームをやる子は、気づいたら何時間も・・・という経験がきっとあるだろう。動画コンテンツやゲームは、ユーザーのそういう常習性(クセになること)を狙って作られている。作り手はなぜそういうものを作るのだろうか?「自分の作ったものをみんなに楽しんでほしい」という純粋な気持ちから? 違う。作り手が追求しているのは「利益」だ。儲かるからやっている。ユーザーの幸せを願っているわけではないし、その中毒性によってユーザーが不利益を被るとしても痛くもかゆくもない。当然責任を持つこともない。美味いラーメンは健康に良いかといったらそうでもないよね(笑)。それでも作り手は客が喜ぶ(=売上が上がって儲かる)から作るし...
4月15日


記憶するには
昨日はOG2人が大学進学の報告を兼ねて遊びに来てくれた。3年ぶりに会ったのだが、中学生時の面影は残しつつもやはり大人になっている。そういう彼女らとの会話は楽しかったな。 その時に話の流れで私の高校時代のとある笑えるエピソードを話したのだが、自分でも驚くくらい鮮明にそのときの状況が脳裏に浮かび上がってきた。40年前の記憶にも関わらず、自分が見た光景がありありと。おぉ、脳ってスゴイな。 一方で、重要性の高い内容ほど案外忘れてしまったりする。カミさんに買い物を頼まれて「おう、任せとけ!」と安請け合いしたものの、買い忘れてこっぴどく叱られることは日常茶飯時だ。 この違いはどこからくるのか? 「繰り返し情報が入ってくると、脳はそれを重要なものと判断し記憶が強化される」というのはよくある説明で、経験的にもこれは事実だと思う。勉強面で利用される王道だ。 ただ前述の高校エピソードは繰り返し起こったことではなく、たった一度きりのことだ。重要でもない(笑)。なのに鮮明な記憶が長期間残っている。これはなぜか? 脳は記憶において「重要性」と同時に「多幸感」も重視するので
4月10日


パイセン
中1でサッカー部に入部したての頃。特に中3の先輩は大人に見えた。キャプテンは威厳があってカッコよかったし、副キャプテンは軟派な人だったが大人びていて憧れた。そして、何より怖かった。まぁ当時は先輩・後輩の上下関係ははっきりしていたし、中学のその頃は1〜2年で身体的に大きく変化する頃だから、なおさらそう感じたのかもしれない。 高校では、部活の先輩とは言ってもそれほど身体つきには差がなかった。年上だということにあぐらをかいて威張る様子もなかったし、みんな優しかった。ただ、ナメることはなかった。練習への取り組み方や試合でのプレー、態度で見せつけられたというか。「この人には敵わない」「この先輩の言うことは聞くしかない」というオーラがあった。 一目置いていたのはサッカーのことだけじゃない。一応進学校でもあったから勉強もできないとリスペクトされない。全国大会出場時のレギュラーメンバーは皆成績も上位だった。高3の1月まで部活をやっていたわけだが、早稲田などのハイレベルな大学に進学している。 生徒たちに聞くと、先輩・後輩の上下関係は希薄で友達のような関係らしい。ま
4月8日


苦難というプレゼント
もう間もなく入学式・始業式。大きなスタートを迎える時期。 新中1は入部する部活動がはっきり決まっている子もいるだろうし、これから選び始めるという子もいることだろう。中2、中3生は運動部なら学総に向けて、文化部ならコンクール等に向けて一層熱が入る時期でもある。私は「部活肯定派」なので、生徒諸君には自分のやりたいことに全力で取り組んでもらいたいと思っている。 私自身は中学時代にサッカー部に所属していた。毎朝7時から朝練があり、放課後も練習があった。顧問はサッカー未経験の先生だったので、練習メニューは自分たちで決めていた。遊んでばかりということはなかったが、やはり指導者がいない中での練習では個人・チームともにレベルアップには限界があったのかもしれない。正直言って強いチームではなかった。最後の地区大会の2回戦か3回戦で強豪校とあたり、いい試合をしたと思うが惜敗(たしか1-0)。結局県大会にも出られなかった。※あの相手チームの得点場面は完全にオフサイドだったと今でも信じているが。 高校では違う部活に入ろうと思っていたが、入学後同じクラスになって意気投合した
4月5日


逃げちゃダメ・・・なの?
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、・・・・」 自分に言い聞かせて、最後に見せる決意の表情。そして、「やります!」 しびれる名シーン。 キツイ状況でも踏ん張って逃げないのはカッコいい。 でも現実には、ドラマやアニメのようにはなかなかいかないことが多いよね。 子どもだけじゃない。大人たちだってキツイ状況で逃げたくて仕方ない場面はしょっちゅうある。で、実際に逃げることだってある。「困難から逃げたことがない!」なんていう人間は噓つきだから相手にしないほうがいい。 別に逃げたっていいんだよ。逃げるか逃げないかは、選択でしかない。逃げると決めたら、全力で逃げるのが賢い選択というものだ。 草食動物は外敵の接近を察知したら全力で逃げる。ただし、これは選択ではない。本能的に「生き延びる」ための行動で、DNAに組み込まれた反射行動だ(多分)。 人間は目の前のことから逃げるか逃げないかの選択権を持っている。ということは、その判断をするための思考の余地があるということだ。「嫌だからやらない」はちょっと幼稚すぎる。逃げた場合のデメリットを想像すらしていない
4月1日


できない時こそ 一段上
長女が小学2年生の頃だったかな?学校で縄跳びをやっていて、自宅でも2重跳びの練習をするように言われたらしい。その練習に付き合った思い出がある。 本人としては一生懸命練習しているのだが、なかなかできるようにならない。へこたれそうになるのを励ましながら見守っていたのだが、そのときふと思いついて、「(1回のジャンプで)3回回してごらん」と言ってみた。 2重跳びができないのに3重跳びができるはずがない。ところがこの助言の後、程なくして2回回せるようになった。一度のジャンプで2回回す感覚がつかめればしめたもの。すぐに連続して2重跳びができるようになった。 全ての物事にこれが 応用できるとはさすがに思っていない。ただ、目標を一段上に置くことで、手前の目標がクリアしやすくなるという場面は結構あるのではないか。 自分が今できることだけをやっていては成長がない。目標を掲げ、そのさらに一段上を目指すつもりで取り組む。このことは意識した方がいいのかもしれないね。
3月30日


主従逆転
王様と家来。 王は自らの要望を満たすために家来を意のままに使う。家来はそれを忠実に実行する。 完全なる主従関係。基本的にこの関係が逆転することはない。 我々は王族ではないから自分の意のままに動く家来はいない。が、日常生活の様々な場面において「家来的な役割」を果たしてくれる道具を持つようになっている。スマートフォンを始めとするデジタルデバイスがそれだ。 わからない言葉が出てきたら辞書を引いて調べる。目的地までの道順を調べるために地図帳を開く。ニュースを得るために新聞を読む。新幹線のチケットを取る。予定をダイアリーに書き込む。必要な資料を郵送で届ける。天気予報を確認する。心拍数を測る。レシピを閲覧する。家計簿をつける。複雑な計算をする。買い物リストを作る。大切な予定の前にリマインドさせる。美容室や病院の予約をする。・・・・ちょっと思いつくだけでもこれだけのことを簡単な指示だけで手元の「家来」がやってくれる。 本当に便利な世の中になったものだ。生徒諸君のようなデジタルネイティブ世代にとっては、便利どころか当たり前なんだろうが。 ところで、ここからが今回
3月29日


誤解と現実
「小学校までは成績が良かったけど、中学入学後は成績が下がってしまった」という話をよく聞く。原因は様々考えられるが、一番多いのは、「実は下がったのではない」というケースではないかと思う。 これはもしかしたら当人や保護者にとってはショッキングなこともかも知れないが、そもそも小学校時代の好成績自体が幻想であった可能性があるということだ。 小学校の通知表での各教科の評定点は3段階。これで「3」だったら「上位」、「2」なら「平均レベル」と考えるのは自然だ。 だが実際には(評定者(=先生)にもよるが)、「3」をもらえる生徒は全体の7割くらいいるのではないか。つまり、評定3であっても学力的には下位である可能性もあるということ。※実際、算数がずっと3でも半分以上の内容が理解できていないケースはザラにある。 これが中学に進学すると、テストでの学年順位という明確な数値基準が導入される。そして順位が下位であるのを見ると「成績が下がった」と誤解する。さらに「今回はたまたま悪かっただけ」と勘違いすることさえある。 そう、それは誤解なのだ。そもそもの実力が明確になっただけ。
3月25日
善意の果て
純粋な善意から、相手のためを思って何らか汗をかいたとしよう。 この善意をどう受け取るかは受け手次第。ありがたいと感じることもあるだろうし、余計なお節介だと思うこともあるだろう。それは発信側側も想定内だと思う。 一番辛いのは、その善意に何の反応もないことではないか。 まぁ、善意の押し売りをしても仕方がないとも言えるが。
3月22日


雨あがれ
ここのところ卒業生と会う機会が増えた。 大学進学の報告で訪問してくれたり、弟が入室するということでOBである兄が来てくれたり。1月には社会人となってバリバリ働いている卒業生たちと飲んだりもした。直接会えてはいないが、成人式の場でエイム同級生での集合写真を送ってくれた子もいたな。 エイムを巣立ってから何年も経って、当然のことながらそれぞれが大きく成長している。それでも人生はまだまだ前半どころか序盤。これからまだ輝かしい未来が待つ。いやぁ羨ましい。眩しい。 だが、ふと思った。もしかしたら卒業生の中には、現在辛い思いをしている子がいるかもしれない。大変な状況で余裕がない子もいるかも。人生、晴れの日ばかりじゃないから。でも、ずうっと雨ってこともないよ。 雨の日は傘をさしたり雨宿りをしたり。そんな自由に動けない中でも、案外やれることはあったりする。もしかしたら、雨だからこそできることがあるかもな。 そして雨が上がったら、笑い飛ばして晴れを満喫してほしいものだ。
3月21日
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