「量」から得られるもの
- 4 日前
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かつて当塾に在籍していた、ある男子生徒のエピソードを紹介したい。
彼の名前はY君。小学生の頃からエイムに通い続けてくれていた生徒である。
しかし、中学2年生まではお世辞にも勉強に真面目に取り組んでいるとは言えず、正直成績も大して良くはなかった。塾には来るものの、どこか他人事のような、身の入らない日々が続いていた。
もともと能力が高いタイプというわけでもなかった。そして、数学、理科、社会の3教科は相当苦手にしていたように思う。
そんな彼が、中学3年生の夏前に突然、一念発起する。 ※少なくとも私には、それが「突然」の変化に見えた。
彼が掲げた目標は、その時点の学力から見れば、正直「無理め」なレベルの県立ハイレベル高校であった。
「お、本気でやるんだな」
そこからの彼の行動は、今までの不真面目さが嘘だったかのように、凄まじいの一言に尽きた。
夏期講習の授業・課題をこなすのは当たり前。それ以外の空いた時間は、一分一秒を惜しむように自習室にこもり、ひたすら苦手な理科と社会の問題演習を繰り返した。
エイムの自習室には、中3生がそれぞれ使える個別ロッカーがある。Y君は、自分が解き終えた演習プリントをそのロッカーにどんどん溜めていった。取り組んだ勉強量を視覚化してモチベーションアップを図る意図があったのかなかったのか。とにかく、これまでの遅れを取り戻すための努力の痕跡であることは間違いない。
夏休みが終盤に差し掛かる頃になると、積み上げられたプリントはロッカーを埋め尽くしてしまって入りきらなくなった。いったい何枚あったのかわからないが、とにかくとんでもない量だった。

――ところが、である。
夏休みが明けた9月。手応えを持って挑んだはずの北辰の結果は振るわなかった。今までの積み残しは(濃密とはいえ)1カ月半くらい時間では埋められなかったようだ。
普通なら、ここで心が折れてもおかしくはない。「あんなにやったのに・・・自分にはやっぱり才能がないんだ」と、元の不真面目な自分に戻ってしまうのが人間の心理というものだ。
しかし、Y君はめげなかった。自分のやってきた「量」を信じ、秋から冬にかけても周囲が引くほどの圧倒的な学習量を継続したのである。
必然とも言えるが、結果は後からついてきた。
その後の北辰ではコンスタントに偏差値が上昇し、11~12月時点ではもはや「もう1、2ランク上の高校を目指すか?」という話をするくらいになっていた。だが、彼は当初からの志望を変更せず受験。入試本番では、あんなに苦手だった理科と社会で「ほぼ満点」を叩き出し、無事に合格を果たした。
彼のストーリーはここで終わりではない。
圧倒的な量をこなして合格をもぎ取った彼は、高校入学後もその「勝ちパターン」を崩さなかった。地道に、しかし圧倒的な量をもって勉強し続け、気づけば学年トップレベルの常連に。最終的には、指定校推薦で見事、皆がうらやむ某有名私立大学への進学を決めたのである。
後日、Y君はこう語ってくれた。
「中3のあの夏に死ぬほど量をこなした経験が、高校に入ってからも生きました。」
彼はもともと天才タイプではない。中2までは成績的に目立たない普通の生徒だ。圧倒的な「勉強量」が、彼の能力を覚醒させたのである。
世間ではよく「効率的な勉強法」や「量より質」という言葉が囁かれる。もちろん、最終的には質も大事だ。だが、「質」を語るのはそれなりの「量」をこなしてからの話だ。
ある一定以上の「量」をこなした者にしか、本当の「質」の意味は理解できない。がむしゃらに量をこなす中で、自分なりのやり方や効率の良さ(=質)が後から磨かれていくものだ。かつて勉強から逃げていたY君がトップ層へ上り詰めたのがその証拠である。
成績を伸ばしたい、志望校に合格したい。はたまたその先の進路でも自分の希望を叶えたい。そう願うなら、小手先のテクニックを探す前に、まずは四の五の言わず「圧倒的な量」を増やすべきである。
そして、中3にとってはその「圧倒的な量」に最もチャレンジしやすい夏休みが目前に迫っていることを付け加えておこう。



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