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ギフテッド

  • 4 時間前
  • 読了時間: 4分

塾の講師として気づけば30年近くが経っている。その30年という時間の中で、私自身が「あ、この子は本物の天才(ギフテッド)だ」と心の底から圧倒された生徒が一人だけいる。今回は、その彼のエピソードとそこから私たちが学ぶべき「勉強の本質」について話をしたい。


私が教えていた某所の教室での中3最上位クラス。最後列の隅が定位置のその子は、私の数学の授業中にノートを開かなかった。と言うより、ノートを持ってすらいなかった。私が黒板にどれだけ重要な解法を書こうが、一切メモを取らない。


そして問題演習の時間。普通なら問題ページの余白に計算式をいくつも書き連ね、あちこち思考を巡らせながら答えにたどり着くものだが、彼は違った。途中式を一行すら書かない。ただじっと問題を見つめ、数秒後、解答欄に正解だけを「ポン」と書くのである。


教科書の例題レベルではない。難問と言っていいレベルの入試問題である。気になって「どうやって解いた?」と聞くと、言葉少なに解答導出までの道筋をボソボソと語る。合っている。「このくらいの説明なら先生でもわかりますか?」と言われているような気にもなってくる。頭の中で解答までの道筋や数式が組み立てられ、一瞬で答えの形になって見えているようであった。


一般的な学習指導では、「ノートをしっかり取りなさい」「途中式を省かずに書きなさい」と教える。ミスを防ぐため、そして思考のプロセスを整理するために、それは絶対に正しい指導である。


しかし、私は彼に対してくどくどと「ノートを取れ」とか「途中式を書け」とは言わなかった。なぜなら、彼にとってはそんな必要が全くなかったからである。それどころか、彼の脳内で行われている超高速の思考をわざわざ「文字に書き起こす」という作業でスピードダウンさせたくなかった。そんなことをすれば、むしろ彼の才能を制限し、潰してしまうことになると直感したから。

ちなみに、隣に座っていた、他の生徒が彼の真似をしてノートを取らなかった時には、「お前はダメだろ」と頭を小突いてやったが。(笑)


さて、ここからが今回一番伝えたい大切なことである。


彼のような圧倒的なギフテッドの話をすると、多くの人は「やっぱり勉強は才能なんだ」と諦め半分に思ってしまうかもしれない。しかし、それは違う。そういう特殊なヤツもいるよ、というだけの話だ。


勉強というフィールドは、特殊な能力を持つ者がラクをして得をする場所ではない。むしろ、ごく普通の人間が正しい努力を積み重ねることによって、その特殊能力を十分に凌駕できる場所なのである。そのためには、絶対に特殊な彼の真似をしてはいけない。


解き方を真似して「カッコいいから」「ラクそうだから」と、普通の生徒が途中式を書かずに答えだけを出そうとしても、待っているのは凡ミスの山と学力の伸び悩みだけだ。私たちは自分自身を正しく理解し、泥臭くノートにペンを走らせなければならない。


ここで思い起こされるのが、福沢諭吉が『学問のすすめ』の冒頭で記したあまりにも有名な言葉である。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という一節だ。


この言葉は、人間はみな平等に生まれてきたという意味で使われることが多いが、福沢諭吉が本当に伝えたかったのはその先である。現実の世界を見渡せば、賢い人もいれば愚かな人もいる、豊かな人もいれば貧しい人もいる。その格差はどこから生まれるのか。彼ははっきりとこう断言している。


「ただ学問を勤めて物事を深く知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となる」と。


つまり、生まれたときの差ではなく、「学んだか、学ばなかったか」の努力の差によって人生は決まるということである。


どれほど天才的な閃きを持つ子でも、努力を怠ればいつか必ず壁にぶつかる。一方で、最初は計算が苦手で何度も間違えていた子が、毎日コツコツとノートに途中式を書き、間違いを繰り返しながらも泥臭く努力を継続した結果、受験を迎える頃には高い能力を持った同級生たちの背中を捉え、追い抜いていく姿を私は何度も目にしてきた。


才能によるアドバンテージは確かに存在する。だがそれは、実は君たちが想像するような大きな差ではない。一歩一歩、自分の足で歩みを進めた人間が手に入れる「本物の学力」はその差を埋め、優位に立てる武器だ。


だからこそ、我々は勉強をする意味があるのだよ。




 
 
 

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